chike0905の日記

何者かになりたい

議論をする、ということと、「用語の定義」の意味

本稿は慶應義塾大学 SFC 村井研 (RG) Advent Calendar 2022の1日目である。 技術系じゃなくてごめんなさい

ブロックチェーン/Web3等の議論をする際に、よく「定義がない/揺れている」ということが批判の的になる。 これは一定以上事実であり、自分も先日Internet Weekで登壇した時それに類するお話をさせていただいた。 一方で、「Web3はムーブメントであり、Decentralizedなシステム1を志向していることが示されていれば良いのだ」と言った風な言説も時折見かける。 自分は研究者であり、世の中に文章を通じて世間に自分の提案や、自分らの議論を問いかけることを生業にしている、と理解している。 そうした中で、なぜ改めて議論をするにあたって定義が重要なのか、をポエムとして記したい。

議論をするということ

議論をする、ということは、原則として「積み上げ」である。 過去の先人たちが積み上げてきた議論、論理を礎にして、新しいものを模索していく作業である。 我々研究者はそれを「論文」という形で議論を記録するし、先人たちの論文を「引用」することで、その先の自分らの議論を補強していく。

積み上げによらない議論は、ある意味で独りよがりである可能性が高く、全くの引用のない論文は比較的評価されにくい。 「自身の中ではこういうものであるからこうなんだ」と言った具合に論を展開したところで、そもそもの「こういうもの」の共通理解が得られなければ、その先の論理展開にも理解を得ることは難しいだろう。 だからこそ、論文執筆の際には1語1語に注意を払い、ある語に既存の定義が存在するならば極力引用することで読者が自分の意図と異なる解釈をしないように注意深く執筆を進めていく。

定義をするということ

では、いわゆるWeb3など最先端の議論の場合はどうだろうか。 それぞれのステイクホルダたちが様々な意見を述べつつも、定義は定まらないまま議論が進んでいる。 そのため、何かを言えば、それとは異なる意図で解釈され、自分の意とは少し的を外れた指摘を受けることも多々あるだろう。

こうした中で、言葉を定義する、ということは何を意味するだろうか。 慶應義塾大学名誉教授の田中茂範氏は「用語の定義と説明」という文章の中で以下のように述べている2

「意思決定」や「共有信念」や「意味」のように、「それが何であるか」を記述することによってのみ、その指示対象(観念対象)を明らかにする場合がある。 連載『言語の役割を考える』第3回 用語の定義と説明 より

まさに、「Web3」は実在する何かではない「観念対象」であろう。 また、Web3は「ブロックチェーンを中核技術として扱ったさまざまなアプリケーションたちの総称」だと自分は理解している。 ブロックチェーンベースのアプリケーションがどのような効用を産み、有用性があるかは世界中で議論が進行中である。 したがって、「Web3で一体何ができるのか」を現在は模索している状況なのである。

田中氏は以下のようにも述べている。

事物名詞の場合、「がある」ということを前提に「である」を導くことができる、比較的、意味の共有感覚を確保しやすいということである。 (中略) 専門用語辞典が取り扱う多くの名詞の場合には、「がある」と「である」の相互作用が起こらず、「AはBである」という表現形式を使ってその語についての定義をしたり、説明をしたりしなければならない。それらは、共通の知覚体験から創発される概念ではないがため、その捉え方に個人差が生まれ、議論や論争、時には紛争の対象になり得る。ここに専門用語の記述の難しさがあるように思う。

つまり、Web3が意味することは依然十分に共通理解の得られる概念が形成されていない状況であるが故に、さまざまな人が定義を試みている状況とも言えよう。 こうした状況の中では、定義を作ろうと模索することは、その観念の意味すること、ひいては有用性を明らかにしようとする1つのアプローチなのである。 自分の先のブログエントリも、改めてブロックチェーンの定義をすることで、その概念の意味するところを明らかにしようと試みたものである。 定義それ自体を議論することそのものが、対象の意味するところを整理・理解し、有用な活用方法を模索する道筋なのであると考えている。

定義と説明

田中氏の文章の中ではこうも述べられている。

定義が「Aとは何であるか」を規定する行為であるのに対して、説明は「Aはどういうものか」を明らかにする行為である。すなわち、定義は概念の差異化のために必要な行為であり、「何であるか」を明かせば、その役割は終わる。一方、説明は、「何であるか」ではなく、「どういうものであるのか」を明らかにするものであり、それを通して、用語(=概念)の意義が読者に了解される。

Web3が何であるか、を規定することで、これはWeb3ではない、というものが規定できるだろう。 一方で、Web3で何ができるのか、はさらにその意味合いを「説明」しなければならない。 ブロックチェーンベースのアプリケーションであるならば、ブロックチェーンベースのアプリケーションで「何が嬉しいのか」を説明しなければならないだろう。 つまり、新たな技術を定義/説明することで、その技術の有用性に関する共通理解を形成しようというのが、自分のスタンスである。 ここを疎かにすれば、どんなに素晴らしいシステム/アイディアであろうとも言語コミュニケーションは不可能であり、社会およびユーザたちの理解は得られず、この分野はいつか潰えることになるだろう。

概念形成のプロセス

田中氏は、概念形成に至る過程として「差異化・一般化・類型化」が存在するとも述べている。 定義を試みることで、差異を明確にすることが一定期待できるであろう。 その中で、さまざまなアプリケーション/事象に対して、その定義が適用できるか、すなわち一般化ができる差異であるか、が検討できるようになるだろう。 さらには、そうした中でアプリケーション等の類型化することで、その定義に当てはまる概念が、社会の共通理解として進んでいくであろうと期待する。

「Web3」という語に関する私見

ここで、「Web3」という語に関する現状の私見を述べておきたい。 「Web3」という語は、「Web」と「3」で構成される。 この時、Web、すなわちWorld Wide Webの一形態であることを示していると理解できる。 ただし、ブロックチェーンベースのアプリケーションは果たしてWebであろうか。

World Wide Webとは、「インターネットを通じて公開されたウェブページが相互に接続されたシステム(MDN Web Docs 用語集)」であると考えると、議論の余地があるだろう。 現にWorld Wide Webの提唱者であるTim Berners-Lee卿は以下のように述べている。

It’s a real shame in fact that the actual Web3 name was taken by Ethereum folks for the stuff that they’re doing with blockchain. In fact, Web3 is not the web at all. (元記事)

加えて、仮にWebという語を使うとして、「3」が末尾につくことで、これは「Web1.0」「Web2.0」につづくWebの進化であることを意味しようとしていると理解する。 Web1.0からWeb2.0は、情報発信の流れが1方向から双方向になった、ということでシーケンシャルな進化であると理解できる。 しかし、それ以降のWebの進化は多岐にわたるはずであり、Web3と称しているものだけが既存のWebの正統進化系であるとは現状理解することは難しい。 そのため、私見としてはいずれの進化もシーケンシャルな番号による語を充てるのは不適切でないか、と考えている。

このように語として既存の語を援用する場合は、既存の語文脈に沿った形で理解されるため、話者の意図と聴衆の意図にずれがしばしば生じるだろう。 この辺りも、「Web3」と名づけてしまったが故に、余計な批判を生んでいる点であるとも理解できる。 自身はブロックチェーンのアプリケーションの有用性を追い求め研究活動をする身として、こうした誤解/ずれを生みやすい語が充てられていること自体が、議論/発展の道を阻害していると考えている。

終わりに

概念形成が依然進まず、多岐にわたる議論がされる今だからこそ、今後の未来に生きる技術への進化を遂げるための議論をする必要がある。 そのためには、概念形成をするための定義および説明を試みることは、議論を積み上げるためのコミュニケーションの中で欠かすことのできない挑戦であると自分は考えている。


  1. ここでいう「システム」は情報システムだけでなく「社会システム」も含むだろう。
  2. 余談であるが、学部生時代に講義を受講したことがあるのを思い出した。こうした分野の講義を受けられたSFCの多彩な環境には洗脳されている感謝しかない。