chike0905の日記

何者かになりたい

それ、Googleにやらせる?

先日テレビを眺めていたらGoogleアシスタントのCMが流れてきた。

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いろんなことがAI*1とかで自動化できるようになってきたし、人間がやる必要のないことはどんどんこういうエージェントに任せたらいいと思う。

そこで、「宿題は自分でやろう」と出てきたとき、本当にそうか?と思った。

自分でやることに意味がある、確かにそうだ。自分で頑張って論文とかレポート書くから、文章力も上がるし、頭の中の整理もされていく。プログラムも自分で組むから、その詳細な仕組みもわかるし、本当にどう動作して、何ができるかわかる。宿題ってなんなんだろうか、夏休みの宿題、自分も昔夏休み終盤になって必死こいてやったり、やらずに未提出のまま教師に怒られたこともある。

その一方でGoogleにできる宿題なんてやる必要あるのか、とも思う。漢字ドリルや、計算ドリルをガリガリやった思い出はあるが、この歳になって文章を書くときはほとんどパソコンで書くし*2、ちょっとした計算もすぐに電卓を開く、英語の文法チェックはGramally様様だ。本質はきっと宿題をやること、ではなくその解法や、漢字の意味を理解することだし、それを学ぶための反復練習としての漢字ドリルや計算ドリルなんだろうな、とは思う。

効率よく学ぶことなんてできないし、結局最後はプログラムだってなんだって自分で考えて書く、ということに意味がある。Googleにできる宿題は淘汰されろ、頭を使うことをしっかりやれ、砂浜でどうやったら崩れない山を作れるか、それに精を出したほうが楽しいし、学びじゃないだろうか?

なんて思ってはいるが、こう応用やらやりたいことベースで学問をつまみ食いをする大学*3にいると、そういう反復練習みたいなものを課せられて基礎ができていることへの羨ましさもある。砂山を崩さないために円錐のバランスやら、そういうことがわかっていた方が結局最後応用を積み上げていくときにも崩れないことが裏打ちされた状態で組み上げることができるんじゃないだろうか?

学びを押し付けるような真似はしたくないし、自分のやりたいことベースでなんでもやればいいけど、基礎は大事、そんなことは言われなくてもわかっていることが前提なのだ。宿題はGoogleにやらせたって構わない、だけどそれがなぜその結果になるか、抽象化された概念ぐらいはわかっていないと、足元を掬われる。結局基礎もおろそかにして応用ばっか走る、そんなことをしているとそもそも根底がぐちゃぐちゃなことに気づかないままになるんじゃなかろうか。どこかの分散台帳界隈でただひたすらに夢見た応用を叫ぶみたいに。

*1:バズワードだがあえて使う

*2:手で何か書こうとして全然漢字が出てこないことはしばしば

*3:SFCの理念は大好きだ